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注目される「雪国」の写真集 : 濱谷浩氏の写真集『雪国』から小島一郎氏の『津軽』

2015年2月23日14:04
今年の冬もまた北海道から東北、北陸、山陰地方にかけて<日本海>側は、大雪に見舞われて います。晩秋から春先にかけ、半年近くも雪のある暮らしがみられる場所もあるようです。

写真集をみてもここ数年、雪国の暮らしや風土、環境にあらためて視線を向けたものが多くみられます。
『小島一郎写真集成』(INSCRIPT)


代表的なものとして『小島一郎写真集成』(INSCRIPT 2009)や富谷昌子氏の『津軽』、百々俊二氏(どどしゅんじ)の『日本海』、森山大道氏の『津軽』(2010年)あるいはまったく切り口が異種なものとしてホンマ・タカシ氏の『TRAILS』が上げられるでしょう。

小島一郎は岩波写真文庫の編集者だった名取洋之助に見いだされ青森出身の写真家、上京後東京で新人賞をとり生前唯一の作品集『津軽』を出版したのち急逝してしまいます。
『津軽』は写真×方言詩×文章の三者が絡み合う、津軽独特の風韻が感じられる連歌の様な作品集として知られます。実際に昭和38年(1963)刊行の初版には、「詩・文・写真集」と銘打たれています。


小島一郎氏『津軽』より(IZU PHOTO MUSEUM 復刻版)より



小島一郎氏の写真は、20年余後の1980年半ばに再評価(再発見)され、21世紀になって写真集も度々刊行、再々評価され、「雪国」青森に生きる人々の戦後の姿を造形美とともに伝えつづけています。



小島一郎氏『津軽』復刻版 1000部限定
IZU PHOTO MUSEUM]



津軽出身の富谷昌子氏の『津軽』(2013年 HAKKODA)にまとめられたのは、現在は東京を拠点にする富谷昌子氏の故郷津軽との「往復書簡」とでもいうべきもの。地元から身を剥がした富谷昌子氏は、写真によって地元を発見し、関係を回復し、やわらかく故郷を「受容」してゆく様子が感じ取れます。



富谷昌子氏『津軽』(2013年 HAKKODA)




百々俊二氏『日本海』(AKAAKASHA)




ロシアやモンゴル、韓国の地図では、日本列島は房総半島から東京圏が先にでっぱった弓のかたちとなり、日本人からみれば日本全体がひっくり返って感覚されます。そのため日本海はユーラシア大陸の端に挟み込まれた巨大な湖のように見えます。
百々俊二氏の『日本海』は、そんな湖に面し、古(いにしえ)から大陸とも諸々つながる港や町を丹念に写しとったものです。




濱谷浩氏写真集『雪国』 



こうした「雪国」に目を注いだ写真集を時間的に遡ると一冊の写真集にめぐりあいます。濱谷浩氏の写真集『雪国』(毎日新聞社 1956年、昭和31年初版) です。

撮影は戦前の昭和15年からはじめられており、それ以降毎年10年間かかさずに小正月に訪れて撮影されたものでした。終戦後の翌年からは越後の高田市に移住し6年もの間、雪国に暮らしています。

桑取谷全景 濱谷浩氏写真集『雪国』より

写真集『雪国』が、以降の「雪国」の写真と大きく異なるのは、「民俗学」の視点と深く融合していることです。時代も日本の民俗学の息吹と交差します。もともと濱谷浩氏は、東京の都会育ち、銀座や浅草でモダンな写真を撮っていました。

25歳の時に、雪深き新潟を訪れてて以降、渋沢敬三氏(財界人で民俗学者であり、柳田國男の薫陶から民俗学へ傾倒)の影響を受けつつ民俗学、そして<民俗写真>に開眼していきます。


「若木迎え」の儀式 濱谷浩氏写真集『雪国』より




 
そこには営々と受け継がれてきた日本の「常民」の環境と暮らしに根ざした信仰や生活様式が記録、撮影されました。
わずか25軒しかない谷間の村・桑取谷では小正月前後6日間にわたる村の行事が精緻にされているだけでなく、正月にはじめて山に木を伐りにゆく「若木迎え」の儀式の写真には、人間がその土地に住み、暮らし、人間への生きることへの、深い観察がみてとれます。箸や串餅の串をつくるための若木は、ミズクサ、ヌルデの木、栗の木ですが、神聖な樹を拍手をうって伐り、家ごとに若木を迎える様子が記録されました。



柏手を打って若木を迎えます


囲炉裏を中心に若木を迎えた様子 濱谷浩氏写真集『雪国』より

                    

この「若木迎え」の日が来るまでは、村の誰であっても山に入ってはいけないしきたりになっています、今でいう生態系を維持するための方法が儀式となって継がれてきたことがみてとれます。

また桑取谷の25軒には、各々がゆるやかに独立した家族生活が営まれていますが、それぞれの一家の営みは「カマド」が中心となっています。村のひとの言葉で「カマドを持った者」とは、独立の家族生活を営む一家というのもそのため。現代の「キッチン」や「台所」「流し」といった言葉からは、「カマド」の意味するところからはずいぶんと遠くに来てしまったようです。



大切に樹の枝をもつ子どもたち 濱谷浩氏写真集『雪国』より
植田正治氏の「童歴」を思い出します



「雪国」の撮影から16年目にして第一作品集『雪国』がまとめられます。その間の戦争中、濱谷浩氏は対外宣伝誌『FRONT』(東方社)や外務省の外郭団体『PNP(太平洋通信社)』の写真撮影を担いますが、雪国で人間が土着し、生産し、生きるということを考えさせられたという濱谷浩氏にとってそうした政治的機関での写真の仕事は疑問に満ちたものでした。

第二作品集となった『辺境の町』もまた中国の辺境の地・新疆省ウルムチで撮影したものでしたが、越後高田の生活を切り上げていた濱谷浩氏は再び新潟をかわきりに「裏日本」を撮影しはじめます。
その翌年の1955年に、濱谷浩氏の代表作の一つ「アワラの田植え」を撮影することになります。



濱谷浩氏の代表作の一つ「アワラの田植え」 『裏日本』より


じつはこの一連の写真は、田植えをする女の強さを写し取った反面、腰まで水に浸かって労働する女性たちに対する社会の無自覚さを広く社会的に認識させるものとなり、この地の水に浸された沼の様な田甫(たんぼ)に水路が設けられるようになった契機となる写真となったといわれています。



濱谷浩氏の第3作品集となった『裏日本』表紙ジャケット
急峻な山の麓に建てられた民家がみえる



1冊の写真集は、視覚的、記憶的、感覚的な通路を生み出すだけでなく、こうした社会的で人間的な水路を生み出し続けています。それは半世紀後に、写真集を手にとり開き、見る者にも継がれていきます。
ご来店した折りには、ぜひ「雪国」の本を手にとって頂ければと思います。時を超えたインスピレーションがきっと訪れるはずです。



アート・コンシェルジェ 加藤正樹

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