代官山 蔦屋書店 オフィシャルブログ
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ヴィンテージ:篠山紀信氏写真集『家』と「激写」のこと

2014年8月1日17:36

雑誌『GORO』で時代のヒロインとなった山口百恵氏らを撮り、「激写」という言葉が流行語になった1975年。


ちょうどこの年に、静かに、大判の『家』という写真集が出版されています。段ボール函と白い内函と2重函に入った重量のある大判写真集『家』は、同年に刊行された『晴れた日』と並ぶ、初期篠山紀信写真集の傑作です。

この写真集はずいぶん前から、篠山紀信氏の写真集の中では『晴れた日』以上に、また求める客筋は異なるもののかつて人気を博した『神話少女』(栗山千明氏 1997年刊)以上に入手困難になっています。



『家』とは、どんな写真集なのでしょう。
サブタイトルに「The Meaning of the House」とあり、「家」
にまつわる意味が探求されたテキストが、「生きられた家」「メタファーとしての廃墟」「家の境界」「自分のための家」「仮泊の家のイメージ」「家と構造的知性」といった章立てで挿入されています。



                             
評論家多木浩二氏によってあらわされた優れたテキストは翌年『生きられた家』(1976刊。復刻版あり)として単行本として刊行されています。とくに建築の方に関心のある方は読まれた方も多いかとおもいます。 
京都市上京区の古民家





赤坂の迎賓館



大阪豊中市のアパートメント



  さて篠山紀信氏による「写真」です。北海道や岩手遠野にある日本の古民家から、台東区上野の古銭湯、赤坂の迎賓館、横尾忠則氏がかつて住んでいた家、高輪の郷ひろみ邸、新宿のアパート、北九州筑豊炭鉱、 沖縄竹富島、軍艦島の廃墟に、廃墟となった家の、家それぞれの歴史と記憶をもった室内の佇まいが、篠山紀信氏の鋭い観察と眼光によって写し込まれています。
北海道から沖縄まで、日本列島約80カ所にのぼる家の記録は、
「日本の家」の有り様を浮かびあがらせました。

写真集『家』の制作背景について、中平卓馬氏との共著『決闘写真論』(2年後の1977年刊)の「寺」というチャプターの中で中平卓馬氏によって引き出されています。

その章の扉には次の様に記されています。

「ぼくは、
東京の新宿にある真言宗の寺、円照寺で生まれ、高校時代までそこで育った。幼児の思い出を頼りに、生まれた場所を初めて撮ってみた。1975年10月撮影」 
  


篠山紀信氏の生家・北新宿にある円照寺


同時に4歳の時に1年弱疎開した埼玉の秩父にも30年余ぶりに母と連れ立って出掛け、篠山氏が記憶するという幼少期の記憶の撮影が行なわれています。生家と疎開先の最初の記憶の撮影は、篠山氏にとって「写真」というメディアを再確認する行為でもあったようです。

つまり懐かしさとか個人的な思い入れはあるものの、「写真」にはそれらはあらわれでることはない。その思いも観る者に伝わることなどない、ということです。「私的」なことを表現したければ、「文学」でやればいいのだと
そう篠山氏は語ります。

山形県山形市の民家




横尾忠則氏のかつての住居(世田谷区水上)



「私的」ではないからこそ、すごく「開放」され、「自由」なメディアなんだというのが篠山紀信氏の写真観です。 
写真集『家』で写された北海道から沖縄まで約80軒の家は、篠山紀信氏の人生とはかかわりあうこともない、懐かしさや思い入れようもない家です。写されたものを凝視してみれば、「写真は私的なものを表現しない」という写真観を徹底したからこそ、篠山紀信氏は写真集『家』を撮ることが可能になったといえるでしょう。

生家の円照寺の撮影は、
そのことを証明するためのツールの一つとして用いられたにちがいありません。 


左の写真は、 『写真決闘論』の中い掲載された篠山紀信氏の生家・円照寺境内の写真。中央に篠山家の卒塔婆がみえる。 
少年時代、雪が積もった日に、その卒塔婆をスキー板代わりにして遊んだといいます。

境内のこの卒塔婆すらも、写真のなかでは一つの「事物」でしかない。ここには個人的な感情や情緒はいっさいあらわれていない。あるはずがないというのが、つきつめていえば篠山紀信氏の写真です。


 

その一方、すべての『家』の写真に共通するのは、湿度が感じられるような仄暗い翳りです。この陰影の感度は、じつは生家円照寺の仄暗い本堂に射し込んで陰をつくりだす光や、縁側の日溜まりの感じです。
     


 

京都府上京区の古民家


「写真は私的なものを表現しない」とはいったものの、少年時代から無意識のうちに絶え間なく感受されてきた光の感度は極めて「私的」であったのではないでしょうか。その光と陰影こそ、日本の風土から生まれたものです。 

 

写真集『晴れた日』(当店、在庫有り・サイン入り)



同年に出版された写真集『晴れた日』において、そのタイトルにしては、どのページの写真も不思議に仄暗いのも、「私的」なものを払った篠山紀信氏の眼にはそのように映っていたからにちがいありません。  



高輪 郷ひろみ邸(1)




高輪 郷ひろみ邸(2)

 初期写真集『オレレ、オララ』(1971年)で、サンバのリズムの中へ、群衆の中で感じとったヴァイブレーションを共有した時、篠山紀信氏は「写真」に覚醒します。あのウィリアム・クラインの『NEW YORK』の様に…。

『オレレ、オララ』で「写真」をつかんだからこそ、その次のステージとしての写真集『家』が誕生した。私はそうおもいます。  


「家の中にある諸々の事物のもつ線や輪郭、そのマッスの明確さ、そして事物とその関係がすべて”等価”のまま突き出されてくる。……それを同一平面に置換された事物の「修羅」と呼んでもよい」(中平卓馬氏『決闘写真論』)。

人間の視線や価値基準では見えなかった事物の関係が、写真を”凝視”した途端にあらわになる。個人的な感情や情緒、追憶をはじき出していく写真。その手法を、アイドルや芸能人のポートレイトに適応させた写真。
それが「
激写」といってもいいでしょう。  



<閉塞的な自己充足的な美学>を激しくうっちゃった篠山紀信氏にとって、被写体は限定されることはありません。「激写」はシリーズとなり、篠山紀信氏は、修羅車となって女性たちを撮りつづけます。大ベストセラーとなった写真集『大激写 135人の女ともだち』(1978年)はその一大集成です。

そして巨大な目をもった修羅車は時代をも巻き込んでいきました。『大激写 135人の女ともだち』の刊行年に、『週間朝日』の表紙撮影をはじめ、1980年から同紙の表紙は女優やタレントたちでなく一般の女子大生シリーズとなっていきました。ここから女優や女子アナが何人も生まれていったことはよく知られています。  





「週刊朝日」 篠山紀信氏撮影 1979年



映画『ファニー・フェイス』(オードリー・ヘップバーン氏主演)で、それまでモデルの基準とされていた八頭身の美人モデルではないふつうの女性古書店員を、カメラマン(フレッド・アステア氏。リチャード・アヴェドン氏が役割モデル)が見出し、暗室の中でその女性がもつ美しさを見出していく。

基底路線に添った美ではなく、
街中の一般人にある美が新たな美の基準となり、それを「激写」していく。その視点は、写真集『家』と根底でつながっています。それこそ篠山紀信氏の写真の秘密といえるかもしれません。


アートコンシェルジュ 加藤正樹

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