2014年2月5日

カラックスの13年ぶりの長編復帰作「ホーリー・モーターズ」について、あるいは新しい映画への挑戦





タイトルクレジットから挿入される生理学者エチエンヌ=ジュール・マレイの「クロノフォトグラフィ」は、
エジソンやリュミエール以前の、映画がまだ映画として誕生する前の映画胎動期のものだ。

そこから始めるカラックスの13年ぶりの長編映画は、まるでもう一つの映画史への試みのように、
新しい映画への挑戦だった。


犬と眠るカラックスが、ふと目覚める。
部屋を回るカラックスの指はいつのまにか工具のようになっている。
そして、壁の穴を見つけたカラックスは、まるで鍵をあけるようにその工具をはめこみ、ひねる。
そして、壁を壊すように押すと一つの隠し通路が現れる。
その通路を突き進んでみると、ある映画館の2階席に出る。
上映しているのはキング・ヴィダー監督の「群衆」(1928)。
 
 
そうして描かれていくのは、奇しくも同時期に公開されたクローネンバーグの「コズモポリス」(2012)と同様に白塗りのリムジンに乗って、都会を走るある一日の男の風景だ。

リムジンの中には、役者などが使う照明つきの鏡台。
乗っているのは、ドニ・ラヴァン扮するオスカーだ。
ファイルを手に取り、次々とアポをこなしていく。
物乞いの老婆、モーション・キャプチャーのスタントマン、怪人メルド、
娘を思う父親、ミュージシャン、殺し屋、死期が迫る老人。
そして、その合間にあるプライベートなオスカーとしての時間。
エディット・スコブ扮する運転手セリーヌや、ミシェル・ピコリ演じる謎のプロデューサーとの会話。
まるで役者の人生を縮図のようだ。
そして、その役者のアイデンティティーを揺るがすかのように、期せずして20年ぶりに再開するカイリー・ミノーグ扮するエヴァとオスカー。
そこで、エヴァは「Who were we?」と、「ポンヌフの恋人」(1991)でよく目にしていた、そして今や廃墟となったサマリテーヌ百貨店での美しい、美しいミュージカル・シーン。


それでも、演じ続けるオスカーは、映画を作り続けるカラックスの決意のようにも見える。
そうして、最後にサラリーマンとして家に帰る。まるで、「マックス、モン・アムール」(1987)への目配せのようなシーンだ。
そしてセリーヌは「Holy Motors」へ、他のリムジンたちと一緒に一日の仕事を終えて、駐車する。
帰り際にセリーヌが着けるマスクは、エディット・スゴブが50年前に出演したジョルジュ・フランジュ「顔のない眼」(1959)のようだ。
そして、人間を皮肉るようなリムジンたちの会話で幕を閉じる。

今作はまるでカラックスのオムニバス的な夢のような映画であり、役者の縮図のようであり、我々の日々の演じている建前的な演技のようでもあり、映画作りの映画ともいえる。
少なくともカラックスが目指した、新しい映画への挑戦は、胎動期から生まれるはずだった映画の一つの可能性だったのかもしれない。

そして何より、カラックスがこんなにも映画を作りたい!という叫びにも似た声を聞いたような気がした。



カラックスと言えば、“ゴダールの再来”と呼ばれ、往年のハリウッドの監督たちのように、
大っぴらにプロデューサーと制作費について喧嘩するような不遜な男であった。
しかし、時代はお金を湯水のように使う監督を許すはずもなく、彼が映画を撮りづらくなる要因にもなっていく、
そうして、長編映画を作るまでに13年もかかってしまった。
でも、様々なジャンルの映画を詰め込んだような贅沢な「ホーリー・モーターズ」を見て、
カラックスにはもっと沢山の映画を撮って欲しいと思うのは、私だけではないはずだと思う。



(シネマ コンシェルジュ 上村 敬)


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